2013-01-13

過去・現在・未来  NO 3158


 人がこの世に生を享けた日を誕生日と言うが、この世に生まれたと同時に与えられた時間が過ぎると「この世」を出立することになる。社会ではそれを「命日」と呼ぶが、時間のスピードと「あの世」への出立は誰にも平等に迎える条件である。

  その間の過ごし方や寿命と呼ばれる与えられた時間の長さは人によって異なるのは当たり前だが、「生きている」と考えることと「生かされている」と考えるこ とで自身の存在感は大きく変化するだろうし、この世の「自然」に対して謙虚な姿勢を感じるだけで足跡も大きく異なることだろう。

 ずっと言い続けてきた言葉に「被害者になるな」「加害者になるな」と言うのがあるが、社会の日々に起きる事象を考えてみると、その言葉が全てを凝縮しているように思えるからである。

 運転免許を取得してハンドルを手にしても、愚かな飲酒運転で人身事故を起こしたり、スポーツの指導で暴行に及んでしまう人達は、間違いなく「生かされている」という発想はないと想像する。

 人が謙虚な姿勢になれば「感謝」に気付き、自然に手を合わすようになるが、世界に存在している宗教の中で「仏教」がこの考え方では最も注目されるべきだと考えている。

 シリア国内で続いている内戦や、領土問題で周囲の国に挑発行動を続けている中国の行動の報道を見ると、「感謝」なんて発想は微塵なく、その収束が如何に大変なことかと知ることになる。

 独裁体制が生まれると、周囲にイエスマンが蔓延ることになり、どんどん悪い方へエスカレートするに至り、弱者である「民」を泣かせたり苦しめることになるが、アサド大統領や中国のトップ、また北朝鮮のトップには「来世」を重視する宗教観はないようである。

  この世に長く生き残っても100年とは凄い数字。1000年前の頃の平均年齢なんて40台だったことを考えると驚異的な長寿である。昔、お世話になってい た内科の先生が「人は学術的に『ヒト』と分類され、寿命は50年。それ以上この世に存在していること事態が奇跡だ」と仰っていたが、自身が何故「この世」 に存在しているのだろうと考えると不思議に包まれてしまう。

 果たして来世は存在するのかという問題に必然としてぶち当たることになるが、私の仕事からすると来世があると信じなければ成り立たないことになる。故にマイクを手に司会をして来たこれまでの歴史には、宗教と超越する考え方も生まれていた。

 ずっと疑問に思っていたことは、この世を出立した瞬間に解けるだろうが、それまでの余生で学ばなければならない重要なことがあるように思えるこの頃である。

  何やらややこしい文章になったところで現実に戻ろう。今日は友人夫妻と共に阿倍野区にある「たこつぼ」に行ってきた。明石焼き、焼きソバ、お好み焼きなど をご一緒したが、また食べ過ぎたようなので帰路は歩いて帰った。大病を患って入院していた時には食することも出来なかったが、今、こうして食べたり歩いた りすることが出来るのも不思議なこと。喋ることも出来なかったのに会話も通じるようになったし、タオルを絞ることやカッターシャツのボタンに問題がないこ とにも有り難いことだと感謝している。

「生かされている」ことに手を合わせている最近だが、身の回りに感謝することがいっぱいあることに気付かされる日々を過ごしている。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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