2024-01-01
地震のこと NO 10076
夕方、テレビを観ていたら自身の情報が流れ、続いて緊急地震速報の嫌な音が流れ、アナウンサーが関東地方、東海地方、近畿地方も言ったので恐怖に震えながら構えていたら、我が生野区では震度3の揺れだった。
地震は恐ろしい。思い出したのは2016年4月に発生した熊本地震のこと。テロップが鳴⒣がれ「震度6強」と出たので櫓炬燵で寝転んでいた妻に「熊本で大きな地震が発声した」と告げたが、「ふ~ん」と言っただけだったが、二回目の地震で実家が危険な状況になっていて更地にして建て直しされることになった。
実家が完成してから一度も帰らずに亡くなってしまったので可哀そうだが、妻の名前が命名されたのは実家が建った時に生まれたからで、その話を何度も聞いていた。
妻の実家は昔の下益城郡で、現在は宇城市になっているが、その大きな地震は、熊本駅の近くに在住する友人の家にも大きな被害が及び、裏側を撤去することになって訪れてびっくりしたことを憶えている。
地震で忘れられないのが救急車で搬送された日の早朝の地震で、自室のベッドに移された瞬間に大きな揺れが発生し、病室の扉が勝手に開いたので恐ろしかった。
症状からベッドに座ることが出来ない身体になっていたから恐怖感が倍増したのだろうが、この時の震源地も能登半島だった。
数年前、この独り言で北海道旅行の予定に触れて「地震が気になる」と書いて12時前に発信したら午前2時頃大きな地震が発生し「胆振地震」と命名されていたが、この「独り言」の訪問者から「予言した」なんて話題になったこともあった。
その北海道旅行だが、出発の日の早朝にフローリングの部屋に敷かれていたごみ袋に滑って転倒し腰に異変を感じて2時間ほど横になったが、転倒した際に目から火花が出たような状況で、吐き気もあったので「行けない」と伝えると「あなたが行かないと誰も行けないのだから」と鎮痛剤を持参して伊丹空港へ行った。
この行程は秋田空港からバスで秋田駅まで移動し、五能線で5時間以上掛けて青森へ行き、次の日の早朝の津軽海峡フェリーで函館に渡るものだったが、青森のホテルでは夕食も取れず、仕方なく裏門の前にあった居酒屋に入り「天丼」を食べ、妻や友人達は「サンマ定食を食べていた。
激痛から寝返りが不可能で、ずっとロキソニンの服用となったが、フェリーの前方のリクライニングシートーで居眠りしたことを憶えているし、函館駅から「特急スーパー北斗」で長万部駅で普通列車に乗り換えてニセコの「紅葉音(あかばね)」へ行き、次の日に登別温泉で宿泊したが、帰阪時の畿内で体調異変があり、関西空港到着と同時に医院の先生に電話を掛け「タクシーで帰宅するので診察を」とお願いしたが、「はるか」で天王寺まで戻った方が早かったみたいで、高額なタクシー料金を支払うことになってさいあくだった。