2002-04-23

宗教観の稀薄  ・・・後 編

「佛教だったら何宗でも。お寺様だったら何方でも結構です」

 最近、そんなお言葉を多く聞くようになった。

また、境内にお墓があるにもかかわらず、同宗派の別のお寺様を紹介して欲しいと要望されることも目立ってきた。

「何を考えている。檀家をどのように認識している」という、お寺様のご叱責のお声が聞こえてくるようだが、これは現実の話であり、この潮流を止める手段を講じるには大変な時代となっている。

 そんな一般的な宗教観が稀薄している中、活動的、妄信的といわれる世界の宗教が活発化してきている。これらは日本の葬儀でも顕著の事例を見せ、お寺様のご存じでないところで我々葬祭業者を困惑させている。

 ある男性の葬儀で、喪主となったご長男が「焼香」をしないとおっしゃられ、故人の奥様が悲しんでおられる。

お考えていただきたい、故人とは「お父様」、奥さんとは「お母様」である。

当然、親戚達の中で揉め事となる。原因は「宗教の異なり」、ただそれだけで自分の父の葬儀に焼香をしないというお考え、ご自身の宗教の「教義」を頑なに貫き通す姿勢はご立派だが、「人間」として最も重要なことを忘れてしまっているように思えてならない。
 
「宗教って、愛じゃないのですか?」
「宗教って、命を大切に考えるのでは?」
「悲しみって、愛があるから涙が流れるのでは?」

 そんな言葉が通じる世界ではない信仰、それは本当に恐ろしいパワーを秘めている。

 数年前にも、宗教の違いからお母様の葬儀に娘さん家族が参列されなかったという不幸な事件があった。こんな方に「不幸」という発言をしたら、きっと攻撃を受けるだろう。出席することの方が「不幸」とお考えになるからだ。 

<触らぬ神にたたりなし>という言葉があるが、果たして、それでいいのだろうか。

 互いの認め合い、それこそが宗教の大切なところではないだろうか。葬儀に参列されるとき、相手側のことを受け止めて差し上げること、宗教云々の前に「悲しみを理解してあげること」、それは、教義とはまた別の問題ではないだろうか。
 
一昨日、小泉総理が靖国神社参拝で話題を呼び、アジアの近隣諸国で物議を醸し出し、英霊や戦犯という言葉がいつも新聞、テレビで飛び交っているが、一方に宗教に関する問題も論議されているようだ。
 
私のような葬儀屋が発言できる簡単なことではないが、発想を変えて、戦争の犠牲者に平和を誓っているとの考えを表明すればどうなるのだろうか。総理だ、議員だ、個人だとの繰り返し、マスメディアの皆さんもご一緒に考えてみたい問題ではある。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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