2002-04-08

一人寂しく・・あたたかく

ある日、町の会長さんからお電話を頂戴した。身寄りが誰一人なく、アパートで一人住まいをされておられたお年寄りの方が亡くなり、何とか葬儀を行いたいとのご要望である。
 
伺うと臨終時に誰もおられなく、法的に言われる「検死」の手続きが進められることになっていた。
 
6畳一間のお部屋、会長さんとご一緒に片付けをスタッフ達がお手伝いしたが、掃除が行き届き、整理整頓され、清潔なお人柄を感じるが、人生黄昏への準備がされていたように、「これは、処分」「欲しい方にプレゼント」などのシールの張られた整理箱もあった。

やがて検死を終えたご遺体がお帰りになり、ご納棺。お柩と枕用具、それにお花一対だけという淋しいご葬儀ではあったが、会長さんをはじめ、ご近所の方々のあたたかい心が精一杯届けられる葬儀になると思えた。
 
お 寺様にご来臨を賜る予算もなく、ご近所の皆さんでお布施のためのお金を浄財として集めようかというお話もあったが、誰かがおっしゃった「みんなでお経を唱 えましょう」というお言葉から、各お家のお仏壇の引き出しに入っている経典を持ち寄られ、様々な宗派のお経が流れ聞こえる御通夜と葬儀が進められた。
 
経典を見られずに「般若心経」や浄土真宗の「正信偈」などを唱えられる方もあり、皆さんが「導師」という「かたち」のご葬送が執り行われる2日間。

火葬場には弊社の車に定員いっぱいが同乗されお送りしたが、炉の扉が閉められる瞬間、「みなさん、有り難う」とのお声が聞こえたような気がした。
 
世の中には、大規模な社葬のように数千人の参列者が来られる葬儀もあれば、こんな葬儀もある。しかし、参列者数で人生を表現することは当て嵌まらないと考えている。

何人が参列したか、何人が焼香をされたではなく、その内の何人が「送られたか」というところに葬送の意義があるように思えてならない。
 
それからすると、この身寄りのない方の葬儀は、関係者の全員がお送りされた立派な葬儀とは言えないだろうか。

戒 名、法名もない俗名での葬儀、お骨の引き取り手が誰もない淋しいご終焉ではあったが、このお方の生まれた時のご両親の存在、少年時代、青春時代、九十九折 に歩まれたであろう人生を勝手に想像しながら、ご近所のみなさんと共に、ほのぼのとした仕事に従事させていただいた「えにし」に感謝の合掌を送る2日間と なった。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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