2003-10-01

来客の言葉から    NO 563

過日、名古屋でメンバー会社の合同社葬が行われたが、喪主をつとめられていたメンバーが来社された。

 「反省することはありましたが、後悔することはひとつもなく、いい社葬が出来ました」と言われ、悲しみと疲れの中、今の季節のようにさわやかな表情を見せていた。

 この社葬、前にも書いたが、彼の謝辞が何より素晴らしかった。全国から参列した協会のメンバーたちも全員が感動し、北海道の苫小牧市民斎場が発信している「めもりあるトピックス」にも、そんな思いが感想として掲載されていた。

 言葉で人を感動させることは難しいこと。言葉のプロである「司会者」が感動を与えることが出来ると思っていたら大間違い。心の中に生まれる共鳴が参列者と一致することが条件であり、そこにプロデュースパワーの真髄があるように思っている。

  「素晴らしい謝辞で、みなさんが感動していたよ」と伝えると、彼は、涼しい顔で「自分の感じたことを、そのまま言葉にしただけです」と返してきたが、本葬 の日を迎えるまでの準備期間に費やしたスタッフたちとのコミュニケーション、そこに生まれた「会長を心からお送りしよう」というまでのプロセスが、見事に 凝縮された言葉のように感じた。

 故人も彼も宗教者。そんなところから第一部の葬儀式は、厳粛な仏教行儀に則って執り行われたが、この儀式があったからこそ第二部の「慈曲葬」が生きたと思う。

 第二部には宗教者の方々の参列もあり、「一にお寺、二にお寺、三にお寺」という地域にあって心配していたが、「こんな送り方があったのか」という賛同的なお言葉を頂戴したそうで安堵している。

 今、葬儀に関する世界が大きく変化してきている。宗教者の中に、「共に葬儀を考えていきましょう」というお方もおられるし、一方で、「葬儀のお布施をご存知ですか?」「葬儀の導師を引き受けます」という、大きな新聞広告を出された組織も登場した。

 ネットの世界を覗いても、もはや「何でもあり」の感を覚えるが、家族が大切な人を喪った瞬間に「遺族」となり、そこに生まれている悲しみの理解だけはして欲しいもの。

 『なんでもかんでも』安かったらよいものではない。宗教者も葬儀社も本物を選びたいものだし、納得されないものは不信感を抱かれ、やがて消滅していくだろうが、葬儀とは非日常的なこと。それだけに難しい問題がある。

冒頭の彼ではないが、後悔の生まれない葬儀が最高。『後の祭り』となったら、あまりにも故人が気の毒。そんな葬儀が増えてきていることも事実。

 講演での質疑応答で、「悪質業者を取り締まれ」なんて言われることも少なくないが、一生に一回のことを、おかしな業者に託した側の責任も考えていただきたいもの。

 人の死は、本人と家族に「心残り」が必ずあるもの。そのうえに心残りを加えてはサービス業としての資格はない。葬祭業とは、心残りの軽減のためのお手伝いをする仕事。

 全国に点在する日本トータライフ協会のメンバーたち。彼らは、そのことだけはしっかりと学んでいる。
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