2017-07-18

命とは与えられた時間  NO 7022

竹葉新葉亭午前中にアリューシャン列島で大きな地震が発生したというニュースがあった。秋田県、山形県や新潟県で猛烈な豪雨が降ったという報道に続いて東京や神奈川で「標」が降ったというニュース映像にびっくり。地球環境が異常という現実を教えてくれているのかもしれない。

聖路加国際病院の名誉院長「日野原重明氏」がご逝去された。享年105歳だったそうだが、ご生前の遺徳を忍び手を合わせた。

氏が晩年衣子供達を対象に積極的に活動されていた「命の授業」は誰もが崇高したの知られているが、氏が「よど号ハイジャック事件」の機内に搭乗されていたことも有名で、当時はハイジャックが理解されていなかったのを氏が乗客に機内アナウンスを使って説明をされ、犯行グループにもっと理解させる必要があるのではと説教された逸話もあるし、やっと解放されてタラップを降りられて足を着地ろされた時にご自身が命と時間を与えられ、それを他人のために有効に使わなければと人生観が大きく変化された話も印象に残っている。

我々業界の研修会で氏のお考えについて何度も話し合ったこともある。死を迎える患者さんに対して同じ高さで看取るということから必ず座られていたことや、激痛に苦しむ患者さんであっても意識が朦朧となるほど痛み止めのモルヒネを投与されず、見送られる家族と患者さんの「有難う」「さようなら」などの会話が交わされる環境を重視されておられ、それこそ「看取り」であるという哲学に心から参道したものである。

105歳までまだ35年あるが、私がそこまで生かされることは絶対にないだろう。残された「年数」「月数」「時間数」「分数」「秒数」と体感をしてこの世を出立することになるだろうが、氏の哲学の中で私が20代の頃に心していた人生観と被さる部分があったので驚いたことも忘れられない。

氏は「人生の終焉の場所は海というもの」ということを常々語っておられたが、私は海につながる川の流れこそ人生で、紆余曲折がるのも当然で、アマゴの棲む渓流からアユの棲む清流を経て死を迎えたら海に到達するという考えだが、川を少し上流へ遡るとJRの鉄橋があり、その辺りに船を浮かべているのが我々葬儀社の仕事だが、アユもアマゴの世界よりも上流に登場したのが冠婚葬祭互助会だと考えていた。

これまでの人生で何度も入院した体験のある私だが、病室のベッドで白い天井を見ながら思い浮かべることは様々なことで、それらは私の葬儀という仕事に大いに役立つ体験でもあった。

「ご本人のお心残りは?」「ご最期お言葉は?」「ご家族の皆さんのお心残りは?」なんて遺族との会話につながることになった。

我々夫婦は病院や医院へ行くことが多い、今日も妻が大規模病院で定期的な検査を受けて来た。70歳の誕生日を迎えると「3割負担」から「2割負担」に変更されるので歓迎だが、行くことがないようになれば素晴らしいことだ。

今日の写真はもう一度利用したいお気に入りの温泉旅館で、函館「湯の川温泉」の「竹葉新葉亭」で、10月にでも行けたらと考えており、もしも行けたら私は5回目となる。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
携帯で下のQRコードをスキャンするか
 または
携帯に下のURLを直接入力します。
URL http://m.hitorigoto.net