2016-07-16

10年前の「独り言」から  NO 4917

岐阜県のタワー今日は長文となるが「幸せ列車」で公開されている「10年前の独り言」の今日の号の再掲で、2006年7月16日に発信された「小説で」というタイトルの「NO 1567」である。

プライベートに関する問題に時効」はないだろう。ましてや業務上で知り得た秘密は、医師や弁護士同様に守秘義務を感じるのが我が仕事。それも人生ご終焉の大切な儀式に携わる誇りのひとつでもある。

世の中に存在する多くの書物、そんな中で「成功談」と「失敗談」という対照的な物語があれば、やはり「失敗談」の方が歓迎されるようで、それこそ人生教訓だという考え方が強いようだ。

さて「喜び事」と「悲しみ事」という体験談で、どちらに学びの興味を感じるかという論議が交わされたことがあったが、流石に葬儀という仕事に従事するメンバー達、全員の意見が「悲しみ」で一致した。

辛い体験、悲しい物語には涙が付きものだが、過去ログに何度か書いた「真っ赤な涙のプロセス」からも、人の心の清浄には涙を伴う物語りが有効なようで、今後「独り言」の中でそんな世界を「小説」という形式で時折に紹介していこうと考えた。

弊社が加盟する協会のメンバー達、またご仏縁で結ばれた塾生達に伝えたいこと、それらを私の立場から凝縮すると、葬儀の司会は技術ではなく「悲しみ体験」で学び、それによって滲み出る自然なハートからということ。それ即ち「辛い思いをしただけ人にやさしくなれる」となる訳だ。

そんなところから、今日は、その小説第1号をしたためることに。

日雇い労務を生業とする一人の男がいた。彼は、仕事を毎日のようにサボり、決まったパチンコ屋に入り浸る姿に、周囲の人達はいつの間にか「パチプロ」という不名誉な呼称を与えていた。

技術が達者だったのだろうか、それが結構な収入になったようで、夫婦で3人の幼い子供達を連れ、近所の食堂に入っている光景を何度か目にしたこともあった。

ある日、地域で人望高い民生委員の方が自転車で来社、私に「一緒に来てくれ」と依頼された。

その表情から<葬儀!>を拝察することになったが、「手ぶらでよい」と急かされ、言われるがまま自転車に乗った。

10分ほど走り軽自動車でも通れないような細い道に入り、古い文化住宅の一軒の前に10人ぐらいの人が集まりワイワイされている所に着いたが、地元の葬儀屋として顔を覚えられているところから皆さんから「頼むよ」と声を掛けられ、無言で頭を下げ民生委員さんと共に中へ入った。

家の中は誰もおらず。土間からすぐの畳の間にある障子が閉められていたが、人の気配を全く感じず、その奥にあるかもしれない「ご遺体」の存在を勝手に想像していた。

土間にパイプ椅子が3脚、そして「みかん箱」に座布団が敷かれたものが二つあり、民生委員さんが椅子に座ると同時に表で声が聞こえ、扉が開いて1人の男性が入ってきた。

目が真っ赤、あのパチプロと呼ばれる男性であった。そこで一瞬<子供達は?>と思った私。

「ご主人、そこに掛けなさい。ここに葬儀屋さんを連れてきたから安心しなさい」

業務上仕方なく差し出す名刺、何も事情の分からない状況に不安な抵抗感を抱くものだが<尋常ではない!?>何かを感じながら民生委員さんの言葉を待った。

「亡くなったのは昨日、警察に届けてから検死があって今日のこんな時間になったのだけど、さっきOKが出たのであなたに来て貰ったということ」

ご主人も私も無言、そこに間違いなく奥の方から線香の香りが漂ってきた。

「不幸な出来事だけども、最後なんだからみんなで送ってあげなければいけない。葬儀の費用は福祉でするから心配ないし、この葬儀屋さんはやさしい人だから安心しなさい」

そこから始まった葬儀の打ち合わせ。心配していた3人の子供達は近所の家で預かって貰っていることが分かってホッとする間もなく、想像を絶する不幸の現実が私に悲しみの試練を与えてくることになった。

死を迎えられたのは奥様、検死ということから突然死ということは理解出来たが、その死に関して信じられない悲劇が秘められていたのである。

「ご主人は言葉にならないので私から話しますが、奥さんはご自身で出産されようとして亡くなってしまったのだよ。つまり、赤ちゃんもこの世に生まれて亡くなってしまったというダブルの不幸だ」

第一子の時は病院で出産されたそうだが、その後の二人は自宅でご自分で出産されたというのだから驚き。そして4回目となる今回の出産が想定外の難産だったそうで、結果的に出血多量ということで尊い母子の命が失われてしまっていたのである。

<どうして救急車を?>という疑問が生まれるが、その時に家の中には誰もおらず、急に産気づいたという不幸な条件が悲しく重なっていた。

福祉に関する役所の手続きを民生委員さんにお願いし、会社に電話を入れ、スタッフに今後の行動を支持し、私は社員が乗ってきた車にご主人を乗せ、検死担当者が発行してくれる検案書を貰いに大学病院に急いだ。

往路の車内は、ずっと無言。掛ける言葉も見つからず、病院までの距離がいつもの何倍にも感じてしまう状態。やがて到着した病院内で申請を済ませ、しばらくして検死担当医から呼ばれて死因の説明を受けたが、そこで検死官がご主人に向かって説教的な発言をされた。

「ご主人、いいですか。我々医学に従事する立場にあって本当に情けない話なのですよ。こんな時代に出産で母子を亡くすなんて許せないことです。出産費用が大変だから自宅で自分でというのも悲しいことですが、病院だったら死亡率0パーセント、側に誰かが存在しただけでも助かったという分娩だったのですよ。この検案書をどんな辛い思いで書いたかを理解してくださいよ」

それは、とても重たい言葉であった。黙って頷くご主人に連れ添っているだけの時間、ただ虚しさで押し潰されるような感じがあった。

帰路の車内で「わしがしっかり働いていたら!・・病院に入れておったら!」と泣き叫ぶ後悔と悲痛の声。そんなお気の毒な葬儀は、福祉葬儀の規定に基いて進められたが、近所の方々の温かい心に包まれたお通夜と葬儀になったことだけが救いだった。

祭壇前に並んで座っている3人の子供達の姿が痛々しく、亡きお母様に「見守ってあげてくださいね」と、ただ手を合わすだけ。

葬儀を終えて火葬場へ。お母さんの柩の隣に並んだ小さな柩、2枚の扉が同時に閉められる時、号泣されたご主人が絶叫された「許してくれ!」の言葉が今でも耳に残っている。

今日の写真はバスの車窓から撮影した岐阜県で知られるタワーを。
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