2015-11-20

思い出したこと  NO 4378

森のオーケストラ「幸せ列車」のHP内で管理人さんのご厚意で紹介いただいている10年前の「独り言」を見ると、深いご仏縁のある広島の人物のお母さんの葬儀に出掛けていたことが分かる。

車に音響設備を積み込んで夜遅くに大阪を出発、宝塚トンネル付近でCDデッキの積み込みを忘れていたことに気付いた。

日付が変わってから九州、四国、東京の仲間達と合流し、式場で音響のセッティングを済ませてからホテルへ行ったが、途中でコンビニに寄ってオニギリを買ったことを憶えているが、車の計器が外気温を「2度」と示していたのだから最近の暖かさは異常のように感じる。

昨日から西に向かって手を合わせたが、夜に友人達と会食を済ませて帰宅したら、テレビのニュース速報で「北の湖理事長」のご訃報を知った。北の湖部屋が出来た時の盛大な記念祝賀会に出席したが、大阪場所の部屋となっているお寺の関係から、同じテーブルの真向かいに親方が、私の隣席に親方の奥様が座られたので緊張したことを思い出しながら、静かに手を合わせた。

さて、「幸せ列車」のコラム「各駅停車」に10年前の「独り言」を紹介いただいているが、過日にあった「1325号」の「西向く士」のタイトルで、改めて考えさせられた内容があったので再掲をすることにした。

毎月送られてくる「Lion」という会報誌がある。これはライオンズクラブのメンバー全員に送付されるものだが、「ライオン誌日本語委員会」の発行する 11月号の終章「編集室」に「三つの命」と題された佐々木智英氏の文章が素晴らしく、今日は、その一部を原文のまま紹介をさせていただく。

『人間には宿命と運命と寿命の「三つの命』がある。まず宿命とは、自分でどうすることも出来ないものである。

例えば、親を選ぶことが出来ない。自分は男として、女として、日本の国のどこそこの家の長男、または二女として生まれた──これは変えることが出来ない。宿命である。

次の運命は人によっては宿命と一緒に考え、他から与えられるもの。定まったもののように思っている人も多いようであるが、文字を分析してみると、そうではないことが理解出来る。

運とは軍(いくさ)をし、戦いをして、車に載せて運ぶものを言うのである。

具体的に言うと、人と人とが出会い、話し合い、心を通わせ合う。そして、良いところを学び取り、切磋琢磨して、努力に努力を重ねて、戦い取って、人生航路の上に載せて自分が運ぶものである。決して他から与えられるものではない。

寿命もまた同じことで、アルコール類を夜遅くまで、二次会、三次会と一週間に八日も飲み歩くようなことをしていれば、せっかく与えられた寿命を自分から縮めてしまうことになる。

一病息災と言って、自分の身体に悪い所があれば、無理をせず、大事に大事にするので、かえって長生きしている人もある。

寿命は摂生すれば延ばすことが出来、逆に、不摂生をすれば、縮めることも出来るのである。

現在、盛んに食育のことが言われている。食生活が多様化、飽食化し、食べたいものは何でも揃うようになり、かえって栄養の偏りや生活習慣病の増加など、さまざまな問題を抱えることになった。

 人生八十年と言われている昨今、大いに摂生して天寿まで生き、奉仕活動に精進したいものである。

 ちなみに、八十八歳米寿、九十九歳白寿、百十一歳王寿、そして百二十歳が天寿である』


いかがだろうか、ライオンズクラブらしいお言葉だと感じ入ったこの文章、私は「王寿」の「王」という文字から「小の月」の語呂を合わせた「西向く士(さむらい)」のことを思い出した。

西向く士の「士」が十一であることは誰もが知られる筈だが、この言葉が仏教に関する詩という説を何かで読んだ覚えがある。

「西向く士」には続く言葉あり、その物語によると、戦いに心身が疲れた「士(さむらい)」が剣を捨て、西方浄土に向かって悟ったのが「十王経」ということで、十王とは初七日から満中陰までの七回を経て、百箇日、一周忌、三回忌を加えた「あの世」の裁判官のこと。

 これをベースに32前に書いたのが愚書「葬儀屋 七万歩才のあの世の旅」だが、ふと懐かしく思い出した今日だった。

今日の写真は富良野のホテルのロビーで撮影した森のオーケストラを。
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