2018-10-23

NO 8348  短編小説 あの頃 ①

思い出のゴルフ場社員数200人足らずの会社で課長をしていたのが水野幸純だった。東京の知られる私立大学を卒業して叔父の縁故でこの会社に入ったのだが、金属加工業という業種に自分では向いていないような気がしていたが、最も大切な取引先の担当者の吉村和夫と交友関係が生まれ、やがて経営者から優遇されることになって30代を迎えると同時に課長に昇進した。

28歳で見合いをした相手早苗と結婚したが、その話に進んだのは近所で有名な世話焼きオバさんと呼ばれる人物だった。

地域の集まりに出ていた母がオバさんから勧められて見合いになったのだが、彼は昔から単独で女性と交際した経験もなく、趣味である音楽と読書ばかりしていたところから、それ以外の話題は苦手という一面があったが、相手の女性が音大出身というところから気が合ったようで、それから半年後に都内のホテルで結婚披露宴を行い、もうすぐ2歳を迎える女の子が誕生していた。

取引先の吉村と交友が始まったのも音楽が関り、係長時代に知り合ってからジャズバンドを結成、吉村がピアノ、水野はエレキベースを担当していた。

吉村は幼稚園の頃からピアノ教室へ通っていたそうで、妻の早苗もピアノを専攻していたこともあり、吉村の演奏を初めて聴いた時にその高度なレベルに驚嘆してからバンドとの交流が深くなった。

水野は高校生の頃からギターに親しんでいたがが、バンドのメンバーには卓越したギター奏者が存在しており、吉村の勧めからベースを担当することになった。

ギターのコードは理解出来るし、妻から教えて貰ったこともあって楽譜も少し分かるようになり、吉村のピアノの左手を注視するようにしていたら、自分で歌える曲なら弦を外さない演奏が出来るようになった。

他にキーボードの悠木、ドラム一筋と自負している萬田、音大を中退した倉野のオーボエが仲間だが、ベースの水野と彼らのレベルにはかなりの開きがあっても、吉村の人柄から口癖のように発せられる「音楽って、音を楽しむことなんだ」の言葉がずっと救いとなっていた。

吉村の率いるバンドの人気は結構高く、公的な施設でのチャリティーコンサートで知られるようになり、地元のイベントには不可欠な存在として歓迎されていた。

過去にこのバンドにもう一台のピアノが入り、妻の早苗が参加して2台のピアノで映画音楽を演奏したら話題となり、国際的な活動をしているチャリティー団体から依頼され、本格的なコンサートホールで演奏したこともあった。

吉村と早苗の交わす会話の中に「フェランテとタイシャー」という言葉があった。それは二人のピアニストが2台のピアノで様々な名曲を演奏していた歴史があり、互いがその二人のピアニストを知っていたことに驚くことになった。

2台のピアノが奏でる音楽は想像以上の世界を旋律で盛り上げ、吉村の高度で感性のあるアレンジによって聞く人達の心の扉を開き、何かしら心地良いひとときを醸し出すことから定期的な開催を求められる声も出ていた。

吉村は裕福な家庭に育ち、幼い頃からピアノに親しんでいたことから高度な演奏テクニックを身に着けただけではなく、ゴルフブームの中で彼のゴルフは抜きん出た実力で知られるレベルにあった。

そんな吉村が語った言葉で印象の残っているのが「我々のコンサートの選曲は、観客の誰もが知る曲にすることだ」というもので、水野も妙に納得していた。

吉村は音楽だけではなくゴルフにも傾倒しており。親がメンバーになっているゴルフ場の会員に入会し、月例競技や関東のアマチュア競技大会に出場して上位になったこともあり、日本オープン出場を夢として打ち込んでいた。

そんな吉村の裕福な家庭環境と才能を羨ましく思っていた水野だったが、何より目標のある人生を過語していことが素晴らしいと賛辞する水野だが、一方の吉村はまっすぐな性格で何事にも客観的に捉える水野の仕事振りに好感を抱き、何度か飲食に付き合ってから誰もが知る友人関係となっており、つい最近に吉村の勧めで水野もゴルフを始めていた。

所謂打ちっ放しと言われる練習場で開講している教室に通っている水野だが、まだゴルフ場のラウンドをしたことはなく、いつか吉村と行けたらとは思っていた。   続く
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