2018-10-12

あの頃  NO 8342

南海 路面電車現在の大阪環状線「寺田町駅」の下を通る国道25号線に東にある百済まで市電が走っていたことを何度か書いたが、私が小学生の頃は現在のJR大和路戦も高架ではなく、市電の折り返し地点だった百済駅の東側には踏切が存在していた。

当時は大和路線ではなく関西線だったが、天王寺から500メートル程東に貨物専用の停車場があり、日本通運のトラックがいっぱいあったことを憶えている。

現在の貨物駅は国道25号線の杭全町交差点の北東側にあるが、広大な地に多くの線路が施設されておりコンテナがいっぱい並んでいる。

前述の市電の百済駅のことだが、そのすぐ近く運河があり、それに沿って関西線の下を潜ることが出来る通路があり遊んだことがあるが、頭上を蒸気機関車が通過すると熱い思いをしたこともあった。

現在の大和路線の大阪側の終点は難波駅だが当時は湊町で、名古屋を結ぶ「急行 かすが」や東京を結ぶ「急行 大和」も運転されていた。

東京まで10時間30分以上を要していたが、三重県の亀山駅から鳥羽、王子駅から和歌山駅を結ぶ列車を併結していた時代もあった。

近鉄、京阪、阪急、阪神電車は新幹線と同じの標準軌だが、南海電車はJRの在来線と同じで狭軌となっており、当時は難波駅からディーゼルカーの「急行 きのくに」が運転され、天王寺駅から発車した「急行 きのくに」と和歌山駅で併結されて白浜駅まで運転されていた。

南海電車がもしも標準軌だったら、現在に乗り入れている関西空港線でのJRとの相互乗り入れは出来なかっただろうが、何れは新大阪駅まで結ぶという計画が進んでいるのだろうかと気に掛かる。

冒頭に出ていた市電だが、百済から源ケ橋、寺田町、四天王寺西門、恵美須町、大国町を経て桜川二丁目から福島西通りへと結ばれていたが、現在の大阪環状線「芦原橋駅」で市電の三宝線と交差しており、乗り換えると堺市に近い三宝の方まで行くことが出来た。

そうそう百済から桜川方面へ行く市電は、大国町から西へ行くと勘助町停留所があり、ここから芦原橋の間で国鉄の関西線を乗り越える袴橋になっていた。

当時に海水浴をするのに堺大浜、浜寺、二色浜などに行ったことを憶えているが、あまりきれいな海水ではなかった。

浜寺までは天王寺の近鉄百貨店の西側に現在でも走っている南海阪堺線を利用出来たが、この路線は恵美須町から平野までも運転されており、阿倍野斎場交差点で交差して繋がっていたことから天王寺発平野行もあった。

阿倍野斎場交差点からは現在の阪神高速道路の下を通り、文の里から東へ走り、大念仏寺の南側を通って平野駅まで結ばれていたが、現在の安孫子筋に踏切が存在していた。

時折に阿倍野に出掛けることがあってこの上町阪堺線の電車を見掛けるが、小学生時代から5年間通学で利用していたことがあるので懐かしく、レトロで歴史的な電車も憶えているが、「501」から「505」のタイプの車両が登場したのがこの頃で、空気バネの電車を乗客達が「新車」と呼んでいたことを思い出す。

今日の写真は上町線の北畠停留所付近の写真を。
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