2019-01-18

懐かしい話  NO 8423

戎橋数日前、あるテレビ番組を観て驚くことがあった。外国から来日していた若い女性が母国へ里帰りする際に祖母の生活する家をリニューアルするために日本の「宮大工」に依頼し、ベテラン技術でj祖母孝行をすると言う企画だった。

木製の椅子、キッチン、ベッド、浴室、リビングなどを信じられない技術を発してリニューアルしていたが、祖母は「信じられない!」と感嘆していた。

椅子の足の復元には神社仏閣で行われている「接ぎ木技術」で見事に完成。改めて彼らの本物のプロの技術に衝撃を受けた。

昨年の3月の私の誕生日に、全国に点在する葬儀の司会者達が有馬のグランドホテルで祝ってくれたが、次の日に新幹線の新神戸駅近くにある竹中工務店の展示館の見学をしたが、そこには「匠達」の見事な技術が分かり易く紹介されていた。

伊勢神宮の式年遷宮は「勿体ない」という指摘もあるようだが、「宮大工」と言う確かな技術を伝承していくことも重要で、冒頭のテレビ番組はそんな思いを再確認することになった。

伊勢神宮には何度か参拝し、昨年は孫を伴って行ったが、参道の途中で歩行が難しくなり医師の上に座って休憩し、妻と孫だけが正殿に参拝し私は帰りをまっていたら、そこの周辺で一方通行になっており、宇治橋を渡った駐車場の所から電話があって「おかげ横丁」の方へ行った。

数年前、伊勢神宮の警衛のトップが同級生だった事実を知って驚いたが、もう定年退職をしており元気にしているかと懐かしく思い出した。

地方からやって来られた知人や友人を伊勢神宮に案内し、鳥羽や賢島に宿泊し、帰阪する途中で松阪の「海津」で焼き肉を食べるコースは誰もに喜ばれるもので、北海道の友人達がやって来たらと考えるこの頃である。

松阪肉で思い出したが、我が大阪で私のお気に入りの「しゃぶしゃぶ店」があった。サウナ「ニュージャパン」のグループで、ニュージャパンの南側に存在し、やがて宗右衛門町筋にも店舗を営業していたが、数年前に丹生ジャパンに隣接する場所に移転して数年後に閉業してしまって残念に思っている。

「2番目に美味い店。1番はおふくろの味」というキャッチコピーで知られていたが、初めて利用したのは昭和47年頃だったと記憶している。

「ゴマダレの味」が絶妙で、地方からやって来た人達を伴ったら「さすがに大阪だ!」と喜ばれた思いでもあるが、ある時代に立ち寄ったら肉の質が一目で落ちたと感じ、担当していた顔馴染みもスタッフに聞いたら、「社長が息子さんに変わりまして。常連のお客様達から指摘されているのですが」とこぼされ、精算時にカウンターで「落ちたなあ」と伝えて帰ったが、それから1ヵ月も断たない内にスタッフから電話があり、「元に戻りましたから」と言われて嬉しくなり行ってみた
ら本当に前の質に戻っていた。

スタッフの話によると厨房スタッフ達からも質の低下に対する失望感が訴えられていたそうで、また美味しい「しゃぶしゃぶ」が食べられると歓迎したことを憶えているが、店舗が統一されて移転新装した際に訪れ、メニューの写真に興味を覚えて注文したら出て来た肉にびっくり。最高級の「佐賀牛」で、支払った額もびっくりだった。

それで思い出したのが御堂筋と道頓堀の角にある「はり重」で、すき焼きで知られる高級店だが、1階で精肉を販売しており、40年ほど前にミナミで会合があった帰り道に「土産」として持ち帰ろうと立ち寄ったものだが、如何にも私好みの脂のない「赤肉」が目に留まったので価格を確認せずに注文したら、何と「100グラム4000円」もする別格の物で、400g持ち帰ったら妻に「素晴らしい肉ね!」とすき焼きをしたが、価格については誤魔化しておいた。

「はり重」の東隣に「松竹座」があるが、ここで初めて見た映画が「駅馬車」で、それは中学生になった頃だった。

松竹座の向かい側のビルの2階に喫茶店があり、私が尊敬していた人物のお気に入りの店で、伴われて味わった「ミックスジュース」が最高だったが、その方も十年ほど前にご逝去され、私が司会を担当してお見送りした。

すぐ近く戎橋があり、消防署と交番があるが、私は3歳の時に大丸とそごうの近くで迷子になり、この交番で保護され、進駐軍のジープで林寺の自宅に戻ったことが近所で話題になったそうだ。

今日の写真はウィキペディアから引用した私が迷子になった当時の戎橋付近の写真を。戎橋は道頓堀のグリコの看板でも知られている。
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