2003-02-24
死別の時を迎えて NO 354
悲しみとは、孤独である。
「孤独は、死別の悲しみの副産物である」と、ある著名な心理学者が解説していたが、まさにその通りである。
大切な人を喪うと、それまでの楽しい人生のメモリアルが一変して悲しみのメモリアルとなってしまう。
それらは、過ごした家の中のすべてのものにあり、行動を共にして行った場所のすべてがその対象となってくる。
病の訪れに死の宣告を受け、残された時間を有効に過ごしたとしても、また、死別に対する覚悟をしていても、これらはその日を迎えると、その現実の衝撃の大きさを初めて知ることになる。
無力感、脱力感、疲労感、孤独感、自責感、不信感、絶望感などに襲われ、判断力が信じられないほど低下するこの時期、神仏に対する不信感も強く押し出されてくるもの。
そんな中で葬儀という終焉の儀式が行われるが、多くの弔問者の来訪への対応などに追われ、悲しんでいる時間なんてないという状態となってしまう。
そんなところから、「葬儀は、悲しみのドサクサに紛れて通過してしまう儀式」と揶揄されてしまうのである。
考えてみれば、我々葬祭業に従事する者は、無責任で横着な行動をしていると言えるだろう。
葬儀が終わってから襲ってくる「本物の悲しみ」、そこに関わりたくないという業者が大半で、これではいけないということで活動が始まったのが日本トータライフ協会。
その発足から短い歴史しかないが、メンバー各社は、その重要性を認識し、様々なケアに対するサービス提供を構築しているし、受注時の打ち合わせから通夜、 葬儀という限られた時間の中で遺族と共に悲しみを共有しながら、葬儀だけでも心残りが生まれないような努力をしている。
仏教の場合、悲 しみの遺族は、葬儀が終わってから初七日から満中陰までの各七日の法要に追われることになる。お寺様を迎え、親戚達への配慮も必要であるが、この忙しさが 悲しみを紛らすことにつながることも確かだが、今、親戚達のご都合主義が優先され、葬儀の当日に初七日を済ませることが流行し、最も悲しい期間に空白の時 間が生まれている。
昔は、義理的な「殉死」というしきたりもあったが、今の時代にあって、精神的な情緒不安定から「後追い自殺」なんて悲劇だけは起きて欲しくないもの。
悲しみの遺族の支えになるのは「人」で、それは、宗教者や友人という存在も大きい。
生前の思い出話が最高の「癒し・慰め」のクスリだとご理解願いたいという思いを託し、葬儀を担当した我々が、悲しみの事実を知る「思慕感」の対象であることも認識しておきたいものだ。