2002-03-07

「逝かれし人へ」・・・誕生秘話   前編

単なる葬儀屋が、自分で作曲をした音楽を流しながら司会をする。考えてみたら嘘のような話しで、多くの同業者や司会者達から冷やかされている。

 著名人の葬儀が行われ、テレビでご出棺の場面がニュースとして放送されるとき、故人には失礼この上ない表現で恐縮だが、自分の曲を耳にする私だけが感じる特別な瞬間でもある。私はそんな思いを抱いてしまう低次元な葬儀屋なのだ。

 音楽が好きで幾つかの楽器に触れると言っても、作曲なんて夢の夢、遠い世界の物語。
作曲をしよう、試みよう、自分のオリジナル曲が欲しい、そんな思いだけで作曲が出来たら嬉しいが、私のレベルでは絶対に不可能な話しである。
しかし、今、話題のオリジナルCD「慈曲」の挿入曲として、「逝かれし人へ」が現実に存在し、全国の多くの式場で流れているという不思議な現象があることも事実。

 この曲の誕生には、オープン化したくない秘密がある。しかし、数人の人達には知られているところから<いつかはバレる>。
今日は私の誕生日。そんな罪滅ぼしの思いと「時効」という言葉を思い浮かべながら白状申し上げる。

  かれこれ10年ぐらい前、九州のある文化ホールで行われた社葬のプロデュースと司会を担当していたとき、弔事を奉呈される方が4人あり、そのBGMとして ハモンドオルガンを演奏していたが、4人目の方の弔辞が途轍もなく長く、それは文字を変えたくなるような「長辞?」となった。

 壇上で演奏しながら、お寺様や参列者の表情を見ると明らかに抵抗感が生まれ、「非常識な人物だ」との雰囲気が垣間見られるが、実は、最も困っていたのは私だった。

 レパートリーに余裕はあったが、<4番目のご登場だから短いだろう>との勝手な思いから、この方のBGMには佛教讃歌を演奏しており、短い旋律の繰り返し行っていたから大変だ。そして、同時に誰もがご存じの曲には変更したくない心情も働いていた。

 本当に長い弔辞。<何とかしてくださいよ>との思いが、ついに限界のときを迎えた。いくら下手な私の演奏でも、BGMとしての音楽的意味を成さず、弔辞を読まれる方への抵抗感を少しでも和らげる必要性からも、曲の変更をしなければならない状況である。

     ・・・・ 明日に続きます
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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