2002-04-21

宗教観の稀薄  ・・・前 編

旦那寺、菩提寺さんを「導師」に迎えての葬儀。そんな家伝統の宗教に基く形式の葬儀が当たり前であったが、今、無宗教が猛烈な勢いで増加してきている。
 
インターネットの世界をご覧になられたらお解かりいただけるが、無宗教、ホテル葬、お別れ会、偲ぶ会、ホテル社葬などを検索して見ると、信じられない数のHPが発信されている。

こんな現実を、果たして宗教者の方々はご存じなのだろうか。大きな危惧を抱いている。
 
今年になってからの新聞記事に、「宗教の意識改革」という大きな記事掲載が目に入り、仏教者に対する次のような批判的な記述が気になった。

「このままでは30年後には大都市のお寺の半分は成り立っていないだろう」
「檀家であるが、信者ではない」
「お寺は住職の私有ではない。世襲制に問題がある」

 私は次元の低い葬儀屋であり、こんな重要な問題に首を突っ込めるような立場にはないが、多くの素晴らしいお寺様の存在があるにもかかわらず、一部の方々の悪いイメージで全体感に影響を及ぼす。

それは、宗教者という「聖職」に与えられた責務の成す因果かも知れない。
 
多くの葬儀を担当させていただくが、今、ご住職と檀家さんの「コミュニケーション」が重要であるということを強く感じている。
 
存命中に葬儀の事前相談を承ることも増えているが、そんな中に「お寺様を変えることは出来ますか」という言葉が多くなっている現実もご理解いただきたいところである。
 
日本人の心の根底にあった先祖供養の「儒教精神」、それは取り返しのつかないぐらいのところまで稀薄しているように思え、これらは「お仏壇」の業界にも顕著で、「寺と家」から「住職と個人」という社会変化の現象と考えている。
 
    ・・・・明日に続きます
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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