2003-10-09

葬儀屋 悦生    NO 570

昨日のNGビデオの収録をしていると、「電話です」というスタッフの声で、またNGとなった。

 ナレーションの録音中は、緊急電話以外は禁止となっているが、担当スタッフの「緊急」という判断から隠れ家に入ってきてしまったということで、<仕方がない>とやり直す。

 その電話の相手さんだが、東京の大手出版社の方。なにやら社員の方が図書館で偶然に私の著書を見つけ、面白いから新刊として出版をということだった。

 その本は、随分昔に著したエッセイ「葬儀屋 悦生」で、私が書いた4冊目となるものだった。

 著書とは、その時代の思いを綴ったもの。世に出た次の日から考え方が変わることもあり、<しまった>と思っても後の祭り。そんな思いも体験しており、「書く」ということは恥を「掻く」ということにもなると意識している。

 そんな電話のやりとりがあって事務所に入ると、多くの郵便物の中に、その出版社からの郵送物があった。

 洗練されたかっこいい封筒に書かれたボールペンの宛先文字、世の中に「達筆」という言葉があり「たっぴつ」と読んでいるが、これは、見事な「横筆」というのだろうか、出版社にしては考えられない横着な文字。きっと、若い人が書いたものと推測している。

 さて、その文書の内容だが、要約すると次のようなことだった。

 『私は、文化出版部に在籍しています。先日、弊社スタッフが東京の新橋にある図書館で、たまたま「葬儀屋 悦生」を拝見し、完成度・面白さなど、かなりの内容であると申しておりました。それで興味を持ちまして今回、お手紙を差し上げました』

 『弊社は、出版を希望される方々からの原稿応募が毎月多数届くのですが、原稿審査会議や合同出版会議が内容を審査し、優れたものを全国書店流通する弊社の新刊として決定しています』

 悦生や他の著書があれば送って欲しい。読んでみて審査にということだったが、改めて出版する気は私にはない。

 それらは生きた証であることは確かだが、つまらない著書を発刊したのは若気の至りという思いもある。

 今は、「削除が可能な」インターネットという便利なものが存在し、こうしてコラム「独り言」を発信している。削除が出来るとは「無責任」という発想も確かにあるだろうが、私に「著者」なんて大それた言葉は似合わない。

 今、葬儀司会者「虎の巻」の監修に取り組み、最終段階に入っている。トータライフ協会の多くのメンバーたちが掲示板で「是非」と表記してくれている。北国に雪の便りが来る前に何とかと考えている。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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