2019-04-20

信じられない思い出  NO 8479

中六 前号で触れた分教場だが、「いざわ小学校」だったと記憶している。何度か紹介した伊勢神宮の警衛のトップのことだが、ここでの2年間同級生だった。

私が住んでいた家と彼の家とは直線で50メートルほどで、瓦を焼く窯があったことを憶えている。

私の家を建てたのは母の兄で、匠と称された優れた大工で、期間を要したが釘を一本も使用しない和風の平屋で、玄関を入ると独特の木の香りがしていた。

その家は大型台風によって屋根を吹き飛ばされ、明るくなったら空が見えたことをはっきりと記憶しているが、玄関に至る坂道にあった直径80センチほどの杉の木が家を挟んで「X字」なぎ倒されており、もしも家を直撃していればこの世に存在していなかっただろう。

「狐の嫁入り」という不思議な現象を何度か目撃したことがあった。遠くに見える山の頂上付近に提灯行列のような光が見えたものだが、いつも小雨が降っている日に見られた。

「タヌキに化かされた」という体験もあった。川で洗濯をする母と一緒に目撃したものだが、流れがないよどんだ下流に直系2メートルもある麦わら帽子が浮かんでおり、2人でおかしいねと見ていたら、瞬時に消えたという出来事だった。

最寄り駅から家の方に向かう途中に「お稲荷さん」があったが、油揚げを買って通るとなくなっていたという体験談を5人くらい聞いた。

不思議な出来事で話題になった人物がいた。少し酒に酔っていたこともあったらしいが、「いい湯だ!」と田んぼの中に寝そべっている事件だった。

そうそう、家を建ててくれた母の兄だが、町議会議員なってスペイン村の開園に尽力した功績が認められていた。シベリア抑留から解放されて舞鶴港に戻り、新聞記事に大きく採り上げられ、昔の志摩磯部駅に到着したときはまるで祭りみたいに賑やかで、あちこちでフラッシュをたく閃光が見える中、電車が到着して改札口から出た時、首から戦友の遺骨を提げた白地の布が印象に残っている。

「伊雑宮」には神社直轄の田んぼがあり日本3大田植え祭りとして知られているが、私の姉も「早乙女」に選ばれて田植えをする光景を覚えているが、かなり名誉なことらしく、母が嬉しそうな表情だったことを憶えている。

前号で昭和天皇の行幸に触れたが、この時に昼食会場となった料亭が親戚で、名よなことだと喜んだが、母は親戚から2人の近衛兵が出ているから食事会場に選ばれたのかもしれないと言っており、「世間様に笑われるようなことをしないように」と厳しい教育を受けた思い出もある。

その料亭も移転して伊勢道路に面する立地となり観光バスが多く立ち寄ることになったが、聞いた話では義理の息子が東京で投資に失敗して精算のために閉業を強いられてしまい、地元の人達が残念がっていた。

伊勢には「鰻料理」で知られる店舗が多いが、中六もその一つで、数年前に青峰山の登山を断念した際に立ち寄ったら、午後1時前だったのに「本日の営業は終わりました」と張り紙があり、仕方なく川の側にあった「川うめ」という元旅館で昼食をした。

鰻料理は福岡県の柳川も有名だが、今日は柳川の「若松屋」の宅配で久し振りに食べた。

そうそう「鰻料理」に触れたところでもう一つ話題を紹介しよう。巨人軍の名投手として知られる沢村投手も宇治山田ご出身だが、当時の阪神の名投手と称された西村氏もこの地のご出身で、外宮の駐車場前にある「鰻料理店」がご実家である。

今日の写真は鰻料理の「中六」だが、「伊雑宮」のすぐ前にある。
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