2021-06-15

伊勢湾台風のこと  ǸО 8791

近鉄特急地球環境問題が表面化している。一昨日の雷も尋常はないほどで恐ろしかったが、我が家の猫が恐怖からか3階から降りてこない。

雷が苦手な猫で、ソファーの下へもぐり込んでしまうことあり鳴き声が異常になるので大変だ。

今年の秋に大きな台風が来ないことを願っているが、山形県や岩手県で降ったうりょが衝撃的で、間違いなく地球環境に異変が出ているようだ。

私の人生の中で忘れられないのは伊勢湾台風で、住吉警察の近くの修吾住宅で生活をしていたが、住吉大社を南へ200メートルほど行った所にある細井川が氾濫し、我が家は2階で助かったが、1階の部屋に50センチほどの冠水があった。

近鉄戦のことに触れているが、当時の特急の名古屋直行便はなく、伊勢中川駅で乗り換えるようになっていた、

中川駅と名古屋駅間は狭軌になっており、標準軌の大阪線とはどうにもならず、宇治山田発の特急も名古屋駅で乗り換えて名古屋を結んでいた。

伊勢湾台風の近鉄名古屋線に生じた被害は甚大で、復興が無理とまで言われていたが、当時の社長であった佐伯勇氏が名古屋線の標準軌にする英断を下され、名阪特急も誕生することになった。

当時の特急券の購入はコンピューターもない時代で駅の窓口で車両の席表に印を入れ、切符に座席番号を手書きする方法だった。

上六駅と鶴橋駅の両方で購入したことがあったが、座席表のファイルを見ながら対応してくれた光景が懐かしい。

伊勢湾台風の犠牲者や行方不明者は5000人を超え、その大半が高潮などを原因とする水害で、三重県から東海地区は衝撃的な被害が発生していた。

銚子港から千葉の中心地へ朝取れの魚を特急列車で運ぶ取り組みがニュースにあったが、近鉄戦には行き先表示に「鮮魚」と掲示する電車があり、伊勢方面からやってくる魚や干物の行商人が利用していた。

上の姉が中学生の頃、大阪に所用がある時はいつも私を連れってくれ、特急の利用はできなかったが、急行に何度も乗車した記憶がある。

運転席のすぐ後ろに仕切られた部屋があり、向かい合わせで10人ほどの席があり、行商の人たちが利用していたが、座れる可能性が高いのでいつもそこへ行っていた。

当時の志摩線は近鉄ではなく、志摩電鉄が経営しており、貨物を連結していた記憶もあるし、初めて2両連結の急行が登場したことも憶えている。

姉と大阪へやってきた時、環状線は「省線」と呼ばれていたし、寺田町駅で食堂に入り「きつねうどん」を食べたが「きつね」という言葉が気になり、あまり食べなかったことも憶えている。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
携帯で下のQRコードをスキャンするか
 または
携帯に下のURLを直接入力します。
URL http://m.hitorigoto.net