2021-01-17

昔話から  NO 8690

前号で「北炭町」と書いたのは「北淡町」誤りで、お詫びして訂正を。

全日本卓球選手権の中継を観た。私の現役時代からはルールも変わっているが、レベルがかなり高度にアップしているように感じた。

男子は及川選手。女子は石川選手が優勝されたが、石川選手のイメージが私の2人目の孫を彷彿させるので応援している。その孫も今春に高校受験となる筈だだが、アメリカで生まれて帰国したのは私が大阪赤十字病院で、腹部動脈瘤の手術を受けてから一週間後の病室で初対面となったが、その手術の前日に病室へ来られた執刀医が、模型を使って手術の説明を受けたが、血管を泊めてから手術をすることを知り、血管を戻したら血管内のゴミが流れ出す可能性があり、心臓付近に流れて来たら心筋梗塞、脳内に詰まれば脳梗塞になると脅されたが、退院後からおかしな兆候を感じ始め、一年を迎える前に後者の病気を併発してしまった苦い体験も忘れられない。

もう11年も前のことだが、未明に気持ち悪くなって救急車を依頼したが、受け付けてくれる病院が見つかるまで疎開道路に停まった救急車の車内で30分を過ごしやっと受け入れてくれる病院が見つかって出発となったが、7、病院までの所要時間を計算すると、知っていた素人耳学問の「脳梗塞」の症状から、点滴で解かす治療タイムを過ぎており、後遺症を覚悟したことも憶えている。

さて、卓球だが、馬場町のNHKの東側に昔は中央体育館があり、何度か試合で行ったことがあるが、現在の中央体育館は南港に近い付近にあり、今回の会場となったそこには行ったことは一度もない。

大阪市長杯に出場した思い出がある。予選は生野区民大会の出場が予選となっており、上手く優勝したことで団体戦の生野区代表選手となったが、市長杯は準決勝まで進んだら決勝戦はなく、優秀賞ということになっていた。

その会場が中央体育館だったが、その後に大坂選手権がその会場で行われ、特別ゲスト出場者として「長谷川信彦さんが」出場され、格段の差をまざまざと見ることになり、観客席からため息混じりで観ていたことが懐かしい。

その長谷川選手は私と同年生まれだったと記憶するが、関東に在住されてトレーニングをされていた時に倒木の下敷きになって命終されたニュースに衝撃を受けたことも忘れられない。

大阪府知事杯は難波にあった大阪球場の前にある卓球場で開催され、私が第二シードで出場した思い出もあるが南海線の高架下にあり真向かいにアイススケート場があったことを憶えている。

当時の世界のトップは中国の選手ばかりで現在と同じだが、「荘則棟」という人物のことが忘れられない。彼は当時の世界チャンピョンで、来阪された際に大阪府立体育館でパフォーマンスを見せてくれ、インターハイで活躍した選手が大学生として注目をされた選手相手にまるで子供扱いと言うほどの衝撃的な力の差を見せつけ、館内が静まりかえった雰囲気を今でも記憶している。

中国で英雄としての存在となっていたが、後に起きた文化大革命で標的とされ、辛苦の人生を過ごされたことも知られている。

1971年、名古屋で開催された世界選手権で逸話が残っている。中国の選手団のバスに誤ってアメリカの選手が乗り込んでしまい、話をしただけでもスパイ扱いされる環境の中、彼は中国の観光地の写真をプレゼントしして握手をしたと言うのだから驚きだが、それが後に米中の国交が始まる「ピンポン外交」のきっかけとなり、私と同年代の卓球選手に彼の名前を知らないことは誰もいないほど知られた存在だった。

胡錦濤氏が来日された際、「福原愛選手」と早稲田大学で対戦されたことも記憶に新しい。
石川選手は高校時代は四天王寺学園だったみたいで、数年前に四天王寺に参拝した際に校舎の窓から「石川選手、おめでとう」という垂れ幕が目に留まったことを思い出した。

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