2021-02-13

3人組の思い出  NO 8708

ベッドで猫と一緒に寝ているが、下敷きにしないように端に寄っているが、今日の早朝に無意識の内にベッドから落ち、左足の外側の3本の指を痛めてしまった。

念のためにと医院へ行き、レントゲンで確認して貰ったら骨折やひび割れはなかったが、「しばらく内出血になるだろう」と指摘されたように、幹部の色が変わってきた。

コンビニへ買い物に行った時はそうでもなかったが、帰路は歩けないほど激痛が走り、杖に重心を預けて時間を掛けて帰宅した。

恐る恐るソックスを脱いで確認したら、足の甲まで内出血が広まっており、観るだけで痛みを感じてしまうほどで、しばらく歩くことが出来ないので巣ごもりを強いられる。

一作寝になくなった友人のお母さんから電話があり、「私の葬儀の時はお願いね」と託されたが、弟さんとも過去にあったことがあり、私への電話は弟さんからのアドバイスだったようだ。

店舗を閉業され、自宅もうまく手放すことが出来たそうで、現在は高齢者施設で過ごされているそうだが、私がこの仕事に従事してから間もない頃にご主人の葬儀を担当しており、半世紀も寂しい生活を過ごされたことになる。

友人が一人息子で大学を中退して仕事を後継していたが、新しいショップを立ち上げて発展していたこともあったが、いつも私のことを見習うように説教されていた話もあり、友人が晩年に嘆いていたことがあった。

結婚式の司会を担当した縁もあり、ずっと卓球、ボウリング、ゴルフで楽しんできたが、バブル時の日曜日のコンペをエントリーするのは大変で、いつも遠方のゴルフ場だったので朝の集合時間が早く、寺田町の喫茶店「行ったり来たり」の前で4時半や5時が普通だった。

彼はボウリングもゴルフも上手いとは言えないレベルだったが、温厚で優しい人柄から多くの友人達に恵まれ、私を含めて3人組の存在もあった。

そのもう一人が「食事の時に喉で詰まる」と検査入院したら、1週間後には面会謝絶になってすぐに亡くなってしまった。大東市の葬儀式場で行われた葬儀は私が司会を担当したが、喪主を務められた奥さんのこともよく知っており、様々な思い出が蘇ってきて言葉になり難くて困ったことを憶えている。

その友人と面白い出来事があった。彼が経営していたピザショップのチラシ広告を担当していたのがN君で、私とも取引があったので二人が宝塚ホテルで行われた結婚披露宴にしゅたいされることになった。

友人が主賓の祝辞で、私が乾杯の発声を担当することになっていたが、披露宴が始まる5分前頃に「祝辞と乾杯の発声を変わってくれ」と言われてびっくり。新郎のN君の了解がなければと伝えたら、「そうなるのではと思っていました」と笑って承諾に至り、彼の乾杯の発生の言葉は「ピザも挨拶も早いのがベターで、乾杯の言葉だけ発します」と言ったら出席舎から万雷の拍手が起こり、彼の表情は「してやったり」という満足げな表情が垣間見えた。 
3人組で残っているのは私だけだが、京都のお茶屋さんで舞妓さんと芸子さんの舞を他蘇秦だ儀と時のことが思い出される。

ピザショップを数軒やっていた友人は、別に不動産業もやっており、取得した不動産が2週間も経たない内に買い手があり、800万円の利益が出たということで、我々を招待してくれたものだったが、京都のお茶屋さんは一見さんでは駄目で、京都の知られるお寺の住職の紹介で実現したものだった。
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