2003-12-22

話の種に   NO 643

諸行無常の理のように、生あるものの死は定め。高齢で病床にあって、「早く迎えに来て欲しい」と言われる方もおられるが、人間とはいつまでも「生」に執着するもの。

 世界の宗教に「あの世」という来世の存在を説くものが多いが、あの世から帰還された人がいないのも事実で、「死海を彷徨った」と臨死体験を語られる方も、それは単なるイマジネーションであると言えるだろう。

 やるべきことを成したと、今生に心残りのない方は少ないだろうが、病による苦痛に襲われると、今生への未練が消え去るとも分析されている。

 昔に著した小説「七万歩才 あの世の旅」の中で、あの世から自分の葬儀を見学するという情景を書いたが、「あれは面白かった」というお声を多く頂戴したことが懐かしい。

 臨終が近くなって最後まで機能するのは「聴力」と言われている。亡くなった瞬間に悪口なんて言ったら、きっと聞こえているかも知れないと思って欲しいもの。

 近所の料理屋さんで顔を合わす長老たち、私を見るとすぐに葬儀の話題となってしまう。

 「あの世って、あると思うか?」なんて質問も多いが、相手の宗教を確かめてから発言することにしている。

 何千回と担当した火葬場への随行。そこで職員が炉を閉める際、合掌する私の手に力が入る。自身もいつか訪れる場所。帰路には、いつも、それまで何人の方を送ることが出来るのだろうかと考えてしまう。

 さて、前にも書いたが、イギリスで面白い遺言をされた方がおられた。埋葬の際、<もしも生き返ったら>との恐怖感から、電話を棺の中に用意するように命じられたのである。

 それから数年経つが、棺内からの電話はないそう。

 そんな思いは誰もが抱くようで、古くは日本の地域的慣習として残っていたので紹介する。

 映画やテレビの時代劇で、水中に潜んでいる忍者のことを思い出していただきたい。彼らは、竹の筒で息をしているが、埋葬時にそんな竹筒を息抜きのように立てる慣習がある。

 これは、「息つき竹」と呼ばれ、もしも生き返った時に息が可能なようにとの思いからだろうが、特に子供の死の場合に多く、その復活を願う愛の行為のように思えてならない。

 土葬が少なくなりつつある我が国だが、葬送の言葉の持つ「域」は広い筈。「息」が絶えても送る側の「意気」を大切にしたいもの。「遺棄」されるような社会ではなく、21世紀に相応しい「生き生き」とした「粋」な葬儀をされることを願っている。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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