2021-03-12
昭和100年まで NO 8723
関東に在住している娘からメールがあった。2人目の孫が卒業した写真が添付されていた。手中一貫校なので9年生を卒業したことになるが、この孫はお釈迦様の誕生日にアメリカで生まれたのでびっくりだが、帰国してきて初めて会ったのは私が腹部動脈瘤の手術を受けた大阪背十字病院の病室だった。
生まれた時に妻がシカゴで乗り継いで不便なところまで行ったが、到着した時に娘から電話が阿あり、どうして旅行者の医療保険を掛けてなかったの?」と問われてびっくり。もしも盲腸になって入院手術になったら500万円は必要と聞いて「すぐに帰国させろ」と伝えたことを思い出す。
娘ファミリーが居住していたのはカナダに近い五大湖の近く
だが、冬はマイナス20度以下になる酷寒の地で、初孫が通っていた幼稚園はマイナス13度以内なら外で遊ばせる年って信じられなかった。
アメリカで生まれたら国籍をどうするかという問題があるが、果たしてどうするかは聞いていないし、高校進学が上手くいくように願っている。
初孫と二人で数年前春休みにやって来たことがあるが、何処に行きたいかと聞いたらすぐに「熊野古道」戸応えたので「特急くろしお」で新宮に行き、ジェット遊覧船で瀞八丁観光もしたし、宿泊は太地の「花游」を利用。湯治は捕鯨問題で騒がしく、パトカーがひっきりなしに巡回していたことを憶えている。
那智の滝にも行ったが、歩行速度の遅い私はいつも置いてけぼり、二人で楽しそうに早足で歩く姿を鮮明に憶えている。
入会していたジパング倶楽部を利用したが、帰りの寺田町駅にあったパンフを目にしてびっくり。南紀方面への徳辺とぁ利引きに企画が有り、それを利用していたら1万円以上が助かることになったが、「「みどりの窓口」でそんな説明はなく、ちょっと腹立たしい出来事として残っている。
ずっと医院のお世話になっている持病が悪化しつつあり、紹介状をいただいて大規模病院を受診する可能性が高まり、明日の処置の時にはっきりするが、まだ死にたくないので行かなければならない。
妻のいる施設からの帰路、昔こら交遊のある人物と久し振りに会った。聴診の彼は学生時代に有名なアスリートだったが、私より4才年上で「昭和100年を迎えるまで生きよう」という会話を交わして来た。