2003-08-02
天 下 り NO 504
10日前にリニューアルした弊社のHPだが、「全国の社葬、ホテル葬のプロデュースを承ります」というページがあり、この本文の中で、どんな大規模な社葬やホテル葬であっても、所謂「天下り」の方のケースは承りませんという、誠に僭越で失礼なことを表記している。
ご自身が「天下り」というお立場にある方がご笑覧されたら、きっと噴飯では見過ごせないお怒りの心情が生まれるものと拝察している。
官庁の外郭団体だけではなく、大企業にもこういうケースがあり、誤解を招くことも考えられるのでここではっきりと説明申し上げる。
正直言って、これは愚生の哲学で信念である。職業的観点からすると「経営者の道楽」となるだろうが、それは「人を送る」という仕事に於けるプロの証のひとつでもある。
葬儀社なら受けるべき。葬儀<者>なら受けないというポリシーは、愚生のこれまでの経験の中で生まれたどうしようもない「わがまま」とも言えるだろう。
そこに至るまでの背景には様々なことがあった。
ある大規模な団体の本葬儀を受けたことがある。第一回目の打ち合わせで、「必要な金は出す。恥ずかしいことだけはないように頼みたい」という発言があり、カチンと来た。
細部にわたる打ち合わせが進んでもその姿勢は変わらず、役員室にいた誰にも悲しみなんて感じられない。
多数の参列者に対する「本葬儀を行った」という社会的解決が第一目的で、葬送の原点である「送る気持ち」なんて微塵も感じない。
故人が哀れに思えると同時に、当日の遺族の心情を慮ると心が痛んだし、そんな本葬に参列を余儀なくされる義理的会葬者が気の毒でならなかった。
「有り難う」という言葉は、信じられないほどグローバル。義理的な愛想もあれば心底からのものもある。プロとして考えたいのは、そのレベルではなく、誰からそのお声を頂戴するかということになる。
施主、故人、遺族、参列者と式場を提供しているホテルの五者。ホテルの「お客様のおっしゃる通りに」という姿勢は仕方がないだろう。
馬鹿でかい祭壇を設営し、適当な時間に献花をして、時間があれば立食で語らう。
酒、ビール、水割り、タバコ、ゴルフ談義にビジネス談義。そんな光景の片隅に故人の遺影が寂しそうに安置されている。その側に遺族が何をしていいのか分か らず佇んでおられる。喪主をつとめる奥様は、参列者の誰と面識があるのだろうか? 哀れで二重の悲しみに襲われ疲労困ばい。
こんな異様な社葬なんてやるべきでない。
そこで、礼節と厳粛についての問題提起と、遺族の悲嘆の心情を切々と訴えることにし、「皆さんが故人だったらどう思われるか?」と投げ掛けた。
しばらく沈黙の時間が流れる。そこから意外な方向に転換することになった。
「義理でも構いませんから、送る礼節だけは重視しましょうよ」。その言葉が引き金となり、式次第の中で「久世栄三郎の世界」が進められることになった。
何を行ったかは企業秘密だが、施主側と遺族側からの「有り難う」に込められた意味が大きく変化したことだけは確かだった。