2003-07-28
九州が遠い NO 499
私が司会を担当した葬儀が終わり、事務所に戻る。
<今から九州へ出張を>と言い出そうとした時、机の上に置かれた大きな遺影写真が目に入った。
「これは?」と確認してみると、今晩お通夜で明日の葬儀というお方。
私の机の上にもメモが置かれ、「社長をよくご存じの方で、ご当家と委員長様が是非、司会を社長にとのことでした」と書かれてある。
1日延ばして明後日という相談もあったそうだが、明後日は友引。ご当家は浄土真宗であり「友引」なんて関係ないが、過去に友引の日に葬儀をした親戚で不幸があり、明日の葬儀となってしまったそうだ。
椅子に座って5分ぐらい考えたが、出張先に電話を入れて日程変更をお願いすることにした。
「お仕事を理解しております。まだ数日の余裕があります。特別にお願いしていることですから、間に合えば結構です。『今から行く』ということでお電話をくださればこちらが都合を調整しますからご心配なく」
そんなお言葉に恐縮しながら安堵するが、申し訳ない思いが込み上げてきた。
さて、今日の葬儀は厳格な宗教で、式次第の中で生い立ちナレーションなんてとんでもないこと。そこで、「かたち」を変えてお寺様にお許しを願い上げることにした。
スタッフ達がご遺族から拝聴してきていた取材の中に、素晴らしいお言葉がいっぱいあり、それらをナレーションに被せて代読申し上げるというシナリオだった。
これは、昨夜のお通夜で、ご導師が故人のことに触れられたことをヒントに急遽組み上げたもの。その旨をお伝えするとご海容くださった。
しかし、本番中に数人の方のすすり泣く声が耳に入り、喋る本人がもらい泣きみたいな状況に陥り大変だった。
葬儀に於けるナレーションとは、決して美辞麗句を並べたり「お涙頂戴」を求めるものではない。宗教の意義に通じる命の尊さと愛を言葉で表現するもの。そんな中にご遺族の送られるお言葉が最高のシナリオとして生きてくるもの。
弊社のスタッフに求める司会力、それがこの部分の重視。厳粛な司式口調を究極と考える重要なキーワードにもなっている。
私が担当したある社葬に、有名な司会者が参列されていた。元アナウンサーで社葬の司会を何度か経験されていたそうだが、司式バージョンの世界を体感されて恐怖を感じられたと伺った。
人は、自身に絶対出来ないことを見ると否定の世界に入るもの。しかし、それ以上の衝撃を受けると恐怖の世界に陥ると言われている。