2003-01-24
天災に備えて NO 323
一昨日、メキシコでの大地震のことが報道されていた。
わが国では、今、東海地震や南海地震のことが問題提起されているが、過日に8年目を迎えた阪神淡路大震災の恐怖の体験もあり、日頃の心構えが重要である。
そんなところから、今日は、「NO 316」に書いた、地震当日の葬儀のことを書かせていただく。
当日、私が司会を担当する葬儀が2件あった。NHKのニュースの衝撃的な映像を目に、自身の仕事の活動を始めたが、大半のスタッフが出勤不可能で連絡も取れず、揃ったスタッフだけで対応することになった。
午前中の葬儀の式場に行った。昨日の通夜に60人もおられた親戚の方々が、20人程度。会葬者も激減。葬儀社も参列者も同じ状況にあったのである。
午後の葬儀は、遠くはなれた大正区の小林斎場へ入場した。
霊柩車とマイクロバスに前後され、お寺さん、喪主さんと同乗しながら阿倍野の近鉄百貨店の前を西に向かった。
しばらく進むと、すべての信号が機能せず、交通ルールが無法の態。
交差点では小競り合いの連続。人が横断歩道を渡るのが命がけという有様だった。
しかし、人の社会。霊柩車に対する常識マナーだけは生きていたようで、優先的に譲られる道中となった。
だが、お察しの通り、帰路が大変。通常の5倍以上の時間を要し、やっとの思いで式場に到着。次の日の御骨あげがどうなるか心配でならなかった。
次の日から、縁者を亡くされた方からの電話が入り出した。「柩を届けて」「寝台自動車をなんとか」「火葬場の手配を」。
電話が不通に近い状態の中、掛かってくればそんな内容ばかり。未曾有の悲惨な現実体験の始まりであった。
当時、携帯電話は少なく、一般電話より公衆電話の方がつながるという情報が流れ、テレホンカードや10円硬貨をかき集めたことも覚えている。
電話が通常に戻ったのは、それから約1週間後。その頃から、大変な2次的問題が押し寄せてきた。
それは、犠牲者の火葬が大阪市内の火葬場で始まったこと。
通常の市民の葬儀への影響が及び、1週間ぐらいも待っていただくという二重の不幸の日々が続いたのである。
兵庫県内へ派遣した寝台自動車の担当者達は、口を揃えて「この世ではない」と言っていたが、日本トータライフ協会研修会で拝聴した、神戸の「株式会社 公詢社」の吉田社長のお話は衝撃だった。
2000名近い方々を担当された陰の尽力、それは、後世に語り継がれなければならない大切なこと。彼に、「命と悲しみの語り部」となってくれるようにメンバー達でお願いした。
『天災は、忘れた頃にやってくる』
その言葉だけは、忘れたくないものである。