2008-09-27

僭越ですが  NO 2277


 数日前、ある新聞の家庭生活に関するページで葬儀の費用が採り上げられていたが、その内容たるやひどいレベル。担当した記者だけではなく、それを見逃して掲載に至った責任者であるデスクの存在に大きな疑問を抱いた。 

 弊社や私も何度も取材された経験があるが、葬儀という世界が非日常的なことからかあまりにも知識不足で、毎回一般常識のレベルが想像以上に低いことを知らされていた。

 一方で、今日の昼の番組でも葬儀が採り上げられ、その中で電鉄会社やパチンコ業界などの進出に「葬儀業界は成長産業で・・」というコメントが流されていたが、こんな外れた情報を伝える現実にマスメディア全体の葬儀「無知」を再認識することになった。

  確かに異業種の参入は増えているし、随分前から「JA」や「生協」の進出もあり、冠婚葬祭互助会がブライダル部門の不振から経営が悪化し「葬儀」を中心に 進める最近でもあるが、断言したいのは高齢社会の到来による死亡数の増加があっても我が業界が完全な斜陽産業であるということである。

  核家族、個性化や多様化要望、家制度、檀家制度、お互い様感情の希薄などを背景に葬儀の形式がどんどん変化していることは誰もが知ることだし、過去に何度 も書いたが、社葬がどんどん減少し「偲ぶ会」や「お別れの会」などホテル葬も減少するということもいよいよ顕著で、訃報記事に「すでに葬儀を済ませた」 「家族だけで行います」「偲ぶ会やお別れの会も行いません」というケースも多くなってきている。

 そんなことを20年以上も前に講演で提起し、狂人的発想と嘲笑された歴史を持つ私だが、確信から発想具現化に至った様々なサービスは各社から求められる「オリジナルサービス」として認識され、ご体感されたお客様の高いご評価を受けている。

 夕方、女性司会者からの提起で「儀式」について1時間ほど話し合ったが、厳粛、礼節を原則とする中で「ご不幸の中に少しでも不幸でないひととき」の創造という結論テーマで結ばれ、それを限られた時間の中でどのように具現化させるかということになった。

 葬儀に関する新聞やテレビでのアンケート調査結果によると、「形式化」されていることに抵抗感を抱かれるパーセンテージが高い事実があるが、お経と焼香だけの葬儀に強い疑問が生じているのも確かである。

 葬儀式の中で形式化的な「弔辞」ではない「追悼の言葉」や、お孫さんや曾孫さん達の
「お別れのメッセージ」ぐらいはあって欲しいもの。それらを進行に携わる我々葬儀社側からではなく、旦那寺であるご導師側からご遺族にご提案いただきたいと願うこの頃でもある。

  こんな私だが、研修指導を行った葬儀司会者達が全国に多く点在している。そんな司会者達から悩みの手紙やメールが届くことも少なくないが、その中でお寺さ んとの葛藤と軋轢という問題が多いのが寂しくて悲しいところ。宗教者なら、もっと「お心」を広くなんて失礼な思いを抱くことになってしまうのである。

 これは、ひとつの例だが、オリンピックでメダルを獲得した選手がインタビューを受け、「天国のお爺ちゃんが喜んでいる」とコメントしたことに対して、「お浄土の」と言うべきだとご立腹されたお寺さんがおられた。

「お孫さん達が、大好きだったお婆ちゃんにお別れのメッセージを書いています。司会者が代読する時間をお許し願えるでしょうか?」と開式前の打ち合わせ。そこで「天国の言葉は禁止」「全部、私が検閲するから持ってきなさい」と言われたお寺さんもおられたそうだ。

 そんなメールや手紙を読みながら、それは宗教者とされての檀家さん達への日頃のご指導に問題があるのでは?と、つい思ってしまうこともある。

 しかし、司会者が代読したお孫さん達のメッセージをお聞きになったご導師が、「あれは、弔辞よりもよい。私の葬儀でもやって欲しい」と仰られたご高齢のお寺さんもおられ、人、様々ではないか。

久世栄三郎の独り言(携帯版)
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