2007-10-26

優先順位?  NO 2015


 肩と腕の痛みや痺れに苦しみ、京都の「タオ療法」の施術を受けていることを知った近所の方が、「同じ症状だから行きたい」ということになり、友人に紹介を依頼し、昨日に治療を受けられてきた。

 朝から「どうでした?」と感想を伺ったら、「不思議とポカポカして、何とも心地良い思いだったよ」と言われ、しばらく通われることになり次回の予約を入れてきたそうである。

 まずは<よかった!>とホッとした私。奥さんもご一緒され、三千院まで行ってこられたと聞き、よい休日になったと喜んでおられた。

 一年前にお母様のご葬儀を担当、先週に一周忌法要を営まれたが、お墓が京都の有名な寺院の境内にあり、ひょっとしたらお参りをされてきたのかもと思っている。

  地方によって「ついで参り」の解釈が異なるが、昔の人達は、こんなケースの「ついで参り」ということも嫌われていたようで、それらは横着ということが背景 にあるだろうが、何かのことで墓地の近くに行くことになり、そこでお参りされることが悪いとは変な考え方かもしれないだろう。

「お墓」の中におられるお方からすれば「歓迎」されるという考え方も極めて自然な発想、例えばだが、墓前で「病院にきました。その待ち時間に参りました。ごめんなさい」と手を合わせることは悪いことなのだろうか。

仏事や神事に関しては「忌み嫌う」ことが山ほどあるが、誰が決めたか不明な迷信など、道理的に疑問を感じることがいっぱいあることも知りたいもの。この問題については、「罰など当たらない」とアドバイスをしたい。

 よく言われる「ついで参り」は、誰かの法要でお墓参りを行い、ついでにその墓地にある他の人のお墓に参ることをさすようで、様々な例や考え方はネットで検索されたらきっといっぱい出てくるので割愛する。

 何かの出来事を「吉兆」と考える人もいるが、一方に「不吉」な兆候と捉える人もいる。誰も「明日の命」についてはわからないが、人生に於ける偶然とは必然と考えるべきで、暗い発想を抱かれるタイプは暗い人生を歩まれるとも言えるのではないだろうか。

  周囲から「天然」と称されるのは名誉ではないが、何でも「悪い方」に考える人はお気の毒に感じる。少しだけでも「よい方」に考えると明るく見えることがあ る。「よい」とは「好い」「良い」「善い」という文字を目にするだけでも暗くなくなる筈。「宵」から「酔い」の世界に逃避される方もあるが、悲劇の主人公 に陥る前に、冷静に、かつ客観的に眺めれば、そこにはきっと何か明るい「兆し」が発見できるだろう。

 意味不明なことを書いたが、今日、 葬儀を終えてから、遠くの地域の重職を担われる方から相談事を拝聴した。それは、地域の方々の葬儀の「ありかた」について悩まれていることへのアドバイ ス。個性化、多様化してきたニーズへの対応や、家族葬の増加に対する地域役員のスタンス問題であった。

 私が申し上げたのは、「お葬式っ て、誰のためのもの?」というキーワード。「故人、遺族を優先されず、地域役員の立場を優先されているのでは?」と僭越なことを申し上げたら、「そう か!」と答えを見つけられたようだが、続いて仰られたお言葉に寂しそうな一面が垣間見えることになった。

「立場の優先ならまだ許されるが、役員の中に自身の利益を優先する人物がいるので困っている」

 ご不幸が発生し、悲しみの葬儀が行われる裏側で、一部の地域役員による利益を求める行為が横行する現実。心ある役員の方達が、今、真剣に悩まれていることを知ることになった。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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