2007-10-19

僭越な問題提起?  NO 2009


 銭湯で「**さんと会ったよ」と遠くの人物の名前を聞いた。ご夫妻とは古くから交流があり、近くの居酒屋さんでもよく会う人だった。

 それから1時間後、日付が変わってから私が銭湯へ行ったら友人である割烹のオヤジと会い、彼が義父とゴルフに行ってきた話を湯船の中で聞いていた。

  義父という方は素晴らしいお人柄、80歳を迎える前からゴルフを始め、奥様を亡くされてから「ゴルフが人生」というようにあちこちのゴルフ場へ出掛けられ ているが、そのきっかけとなったのが私のアドバイス。今や「豪い事を教えてくれたものだ」とファミリーから攻められている。

 少し逆上せ気味で先に上がって着替えていたら、女将さんから「奥さんが話されていた**」さんだけど」と、少し前に銭湯で発生していた出来事を聞いた。

「**さんがね、さっき『化粧用具入りのバッグを忘れたのだけど、なかった?』と来られ、探されたのだけどなかったの。それがね、今、お客さんが『こんなところにバッグが』と発見されたのよ」

 ということから妻に電話を。**さんに「あった」と伝えてと頼んだら、それから10分ほどしたら彼女が姿を見せ、番台越しに「社長、有り難う」と言われてびっくり。隣に座っていた割烹のオヤジから「何があった!?」と聞かれて経緯を説明した。

 発見された人物も交流のある人。銭湯とはそれぞれの生活パターンの時間帯に合わせて顔馴染みが出来るが、我々庶民にとって何より特別なコミュニケーションの場であるとも言えるだろう。

 さて、兵庫県加古川市で起きた痛ましい事件が悲しい。こんなかたちで家族が突然に遺族と呼ばれるなんて酷過ぎる。「犯人がこの世に生まれていなかったら」「犯人の誕生につながる親達が出会っていなかったら」と思ってしまう。

 被害者は、私の孫と同じ小学校2年生。祖父母のご心情を拝察するだけで犯人が憎くて堪らなくなってしまう。

 地元の葬儀式場で行われる悲しい告別式。そこにご当家の檀那寺であるお方が導師を勤められる。それは、高齢者の葬儀と全く同じと言っても過言ではない式次第であり、式場内の嗚咽の声が大きいということだけが異なる空間である。

  敢えて叱責されることを承知で提唱、提起したいことがある。交通事故、事件の被害者などの悲しい葬儀、そこで導師を勤められる方をご本山から派遣すること が出来ないのだろうかということ。悲嘆の研鑽を積まれ、精神心理学を学ばれたような宗教者が導師を担当し、そこで参列者の誰もが救われる説教や法話をして くださる存在の登場。私は、そんな時代の到来を心待ちしている一人である。

 ただお経しかされない導師、その場に相応しくない内容の説教 をされて参列者に顰蹙ん対象となってしまわれる宗教者の現実もあるし、ご遺族の慰め、死を向かえた人への語り掛け、参列者への「命の問題」についての問い 掛けなどを行われる宗教者の存在。それを本山が宗教者の使命感として前向きに取り組んで欲しいと願って止まないのである。

 ヨーロッパには、そんな特別に悲しい葬儀を担当する専門の葬儀社の存在があり、費用さえも信じられないぐらいに抑えられている現実があるが、弊社が加盟している日本トータライフ協会では、そんなことを真剣に話し合った歴史もある。

  家族が突然に被害者となり、そこに高額な葬儀費用を必要とするなんて不条理なこと。それこそ悲しみを共有される人達が「香典」を寄せられ、少しでも負担を 軽減されることも大切なことで、そこに「愛」ある「悲しみのプロデューサー」という存在の登場も待ちたい思いもを秘めているこの頃である。

 事故や事件の被害者となった幼い子供達の葬儀、そこで「お友達」が何かに参加する式次第が重要なこと。それによって命の尊さを学ぶことになれば「送られる人」「送る人」の両者に意義が生まれるのではないだろうか。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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