2002-09-21
小説 「幕末事件」 前編 NO 202
今日から、5日間シリーズで短編小説に挑んでみます。時代考証につきましては矛盾がありましょうが、なにとぞお許しくださいませ。
江戸時代、幕末であった。庶民が暮らす長屋の片隅に、独身の左官が住んでいた。
彼は、腕前が優れ、多くの大工仲間に重宝されていたが、仕事の会話以外を一切しないという人物。近所で偏屈者として名を馳せていたが、30才を過ぎた美男系で、長屋の女性達には人気があり、毎度の食事の差し入れを欠くことがないほどだった。
そんな彼が、ある日、突然に姿を消してしまった。家財道具はそのまま。数日後には、今で言うところの捜索願も出されたが、人の噂も何とやら、やがて、みんなの記憶から除序に薄らいでいくことになった。
忽然と姿を消してから5ヵ月後、一人の人物が彼を訪ねて長屋にやって来た。見るからに豪商という雰囲気を漂わせる男は、近所の人達に大家に会わせて欲しいと頼んだ。
女性軍が蜘蛛の巣だらけの部屋を取り急ぎ片付け、やがて、大家と男の対話が始まったが、両隣には大勢の長屋の衆が入り込み、壁を通して聞こえる話に聞き耳を立てる。
男の話しっぷりは中々のもの。店子達が一目も二目も置く大家さえ、信じられないほどの低姿勢。まるで勝負にならないほどの貫禄違い。男が只者ではないことが言葉だけでも充分に伝わってくる。
さて、男がやって来た目的、左官に会わせて欲しいということだが、不思議なことに左官のことを「先生」と呼称しているではないか。思わず、大家が聞き直す。
「あの左官が先生ですと? 何かのお間違いでは?」
「恐れ多くも彼の御仁は、今やご高名な大先生となられ、山を下りられた麓の村で『神』とさえ崇められるお方。何よりご尊顔を拝し奉りたく参上仕り候なれど」
「なんと?『神』ですと? どういうことですか?」
男の話によると、左官は山篭りをし、厳しい修行を経て神が降誕されることになり、麓に下りて、村人の病の治癒や天気のお告げなどを行い、それらの評判が高く、やがて風評が広がり、この男の耳に入ったということであった。
「私には腰痛の持病があり、その治癒を願い、使いの者を早駕籠で走らせたのですが、先生は、もうすでに江戸に向かって帰られたとのこと。その際、この長屋のことを聞き及びましたので」
男が腰に手をやりながら言っていることは、どうやら冗談ではないようだ。大家だけではなく、耳にした長屋の一同に衝撃が走る。
やがて、男は、「また、参上いたします」と言って、帰って行った。
男が帰ると、大家の命令で、長屋の衆が左官の家の掃除を始め、入り口に打ち水までやっている。
それから3日後の昼、先日の男を伴って、左官が帰って来た。
顔中髭だらけ。如何にも山篭りをしてきたというような風貌であった。
・・・明日に続きます