2006-12-14

慈・・悲  NO 1717


 講演の資料整理をしていたら、思い掛けない原稿が出てきてびっくり。その忘れられない講演の光景が蘇ってきた。

 ある大手ホテルを会場として行われた講演会だが、出席された方々は全員が宗教者。予想したよりご人数が多く、お食事付きということもあって主催者の方とホテル担当者が大変だったが、講師を担当した私にも大変な苦労が秘められていた。

 資料は1ヶ月ほど前から考え、何日も深夜に熟慮を重ねて練り上げたものだったが、その本番当日の2日前、あのアメリカの「9・11事件」が起きたからである。

 講演のテーマは「葬儀」であり、21世紀を迎えて個性化や多様化ニーズに急変する我が業界の話が中心だったが、そこに勃発した世界的な大事件。多くの被害者の存在から「講演を延期するべきでは?」という考えも生まれ、悩みに悩んだのである。

  当日、講演終了後の1時間の質疑応答タイムが設けられており、間違いなくキリスト教やイスラム教の批判問題が物議になってしまうことは避けられないだろう し、その方向に進んでしまったら講演会の趣旨とは異なってしまう。そこで苦渋の選択としてシナリオ変更したのが「命」のテーマ。葬儀を通して、社会は悪い 方向へ進んでいることを感じているという流れだった。

 講演の冒頭で「アメリカではプロ野球やコンサートを中止したり自粛変更されたりしています。本会も延期を考えましたが、被害者の皆さんのことを考えながら命をテーマに」というようなお断りから始めたことをはっきりと憶えている。

  その数日前、毎日新聞に「死の教育運動の団体」という記事があった。それは、教室の壁に学生服やセーラー服など飾り、「もし、君達に何かあったら、こうし て飾られる・・君達は受験で何点取るかではなく、生きているだけで親孝行なんだ」というようなことを教える活動であった。

「死んだら自分はそこで終わりだが、周りの人の悲しみがそこから始まり、ずっと続くことになる」と知って欲しいと願う行動だが、それを読みながら「命の尊さとは、心の尊さであり、自身や周囲を慈しむこと」だと改めて学んだような気がした。

 私の好きな文字に「慈」があるが、制作監修した葬儀のオリジナルBGM「慈曲」の存在もあるように、この文字に一入心深い思いを抱いており、私の描く葬送の世界は、この文字なくして成り立たないだろう。

「慈」 とは「いつくしみ」であり「愛しみ」とも書き、相手を救ったり楽しくさせることで、「悲」とは相手から苦しみを抜き去ること。私の葬儀に対する理念の一つ である「不幸の中で少しでも不幸でないようなひとときのプレゼント」につながる想いと言えばご理解いただけると信じている。

 協会のメン バーや塾生達のブログを訪問すると、「葬儀社って、やさしさがなければダメなんだ」とか「葬儀社って、悲しみのプロを目標にしなければいけないんだ」なん て言葉を目にすることもあるが、それらを集約した文字が「慈」であり、彼らがその本義の実践行動に目覚めてくれていることに何よりの喜びを感じている。

『慈しみ育て来たりし庭の花 想いあるなら春を迎えよ』という歌を思い浮かべた今日。全国各地での「慈曲葬」を願っている。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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